2017年10月02日
◆ユダヤ109〜サルトルの実存主義とその顛末
●サルトルの実存主義とその顛末
第2次世界大戦後のフランスには、実存主義と構造主義という二つの思潮が現れた。前者は哲学者のジャン=ポール・サルトル、後者は社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが創始した。ともにユダヤ人だった。
実存主義の提唱者サルトルは、1905年にフランスに生まれ、哲学者としてとともに小説家・劇作家としても活躍した。
1930年代にドイツに留学し、フッサールに現象学を、ハイデガーに存在論を学んだ。そして、1943年(昭和18年)に刊行した『存在と無』で、自らの現象学的存在論を体系的に叙述した。本書は、「実存は本質に先立つ」という命題から出発する。実存(エクステンシア)とは、西欧でスコラ神学以来、本質(エッセンシア)と対比されてきた概念である。現実的な存在を意味し、普遍的な本質ではなく、個物的存在をいう。可能的な本質が現実化されたものである。近代西欧思想では、特に人間的実存をいう。
サルトルは、本書で、ユダヤ=キリスト教的な世界観に対して、それを否定する無神論的世界観を提示する。もし無から万物を創造した神が存在するならば、神は自ら創造するものが何であるか(本質)を分かっているから、すべてのものは現実に存在する前に、神によって本質を決定されていることになる。この場合は、本質が実存に先立つ。しかし、逆に神が存在しないとすれば、すべてのものはその本質を決定されることなく、現実に存在することになる。この場合は、実存が本質に先立つことになる。サルトルは、後者の世界認識を打ち出した。
サルトルは、1946年(昭和21年)刊行の『実存主義はヒューマニズムである』で、実存主義を宣言した。実存主義は、人間の本来的なあり方を主体的な実存に求める立場である。実存の哲学にはゼーレン・キルケゴールやカール・ヤスパースのような有神論的思想も可能だが、サルトルの思想は無神論的実存主義である。
サルトルによると、事物はただ在るに過ぎない即自存在(tre-en-soi)だが、人間的実存は自己を意識する対自存在(tre-pour-soi)である。対自存在は存在と呼ばれてもそれ自身は無である。人間は、あらかじめ本質を持っていない。人間とは、自分が自ら創りあげるものに他ならない。人間は自分の本質を創る自由を持っている。それゆえに、その責任はすべて自分に返ってくる。「人間は自由という刑に処せられている」とサルトルはいう。
人間はだれしも自分の置かれた状況に条件づけられ、拘束されている。人間を条件づけているのは、政治・社会・歴史など世界の全体である。人間は世界に働きかけて、選択の可能性を広げ、自己をますます解放しなければならない。このように説くサルトルは、アンガージュマン(政治参加・社会参加)の必要性を訴えた。核時代に入り、米ソ両大国の冷戦が続く状況において、世界を変えるために行動を呼びかけるものだった。その主張は、戦後の虚無感に苛まれていたフランスの青年層に強い共感を与え、さらに世界的に影響を広げた。1950年代から60年代にかけて、実存主義は、マルクス主義と並ぶ二大思潮となった。
サルトルは、自らの政治的・社会的実践を通して、社会的・歴史的な状況認識を深めるなかで、マルクス主義を評価するようになっていった。しかし、その思想的立場は、マルクス主義との関係で、何度も揺れ動いた。1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発すると、スターリン主義の共産党に接近したが、ソ連が民衆蜂起を武力で鎮圧した56年のハンガリー事件以後は、共産党と絶縁した。それでもなおサルトルはマルクス主義の根本的な矛盾・限界を看破することが出来ず、マルクス主義に固執した。それは、無神論的実存主義は、唯物論であることによる。それゆえ、本質的にマルクス主義と親和的であり、唯物論の中で人間的実存を強調する立場となる。
サルトルは、1962年(昭和37年)の『弁証法的理性批判』では、マルクス主義を生んだ状況はまだ乗り越えられていない、それゆえマルクス主義はわれわれの時代の哲学であり続けていると主張し、実存主義を「知の余白に生きる寄生的体系」と位置付けた。本書でサルトルは、史的唯物論を再構成し、マルクス主義の中に精神分析学やアメリカ社会学の成果を包摂しようと企てた。知の総体を全体化するための作業として、諸個人の実践と集団の弁証法を書き、さらに歴史的全体化の弁証法を論じる予定だったが、未完に終わった。
1968年(昭和43年)のフランス五月革命は、知識人・学生を中心に大衆が行動し、管理社会への反抗を表した。この動乱において、ユダヤ人サルトルは知識人として自己批判を行い、毛沢東主義を奉じる極左グループを支援した。毛沢東は、当時一部の人々に人民の立場に立つ指導者と誤解されていた。サルトルは、中国で進行中の文化大革命が、毛沢東の個人的な権力欲による権力闘争であることを見抜くことが出来なかった。
サルトルは、自らの過ちに気付かぬまま、1980年(昭和55年)に死去した。彼が戦後西欧の代表的な知識人として、マルクス主義に対する幻想を、世界の知識人や学生に与え続けたことは、大きな罪過である。その罪過は、無神論的な実存主義に発するものである。
次回に続く。
第2次世界大戦後のフランスには、実存主義と構造主義という二つの思潮が現れた。前者は哲学者のジャン=ポール・サルトル、後者は社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが創始した。ともにユダヤ人だった。
実存主義の提唱者サルトルは、1905年にフランスに生まれ、哲学者としてとともに小説家・劇作家としても活躍した。
1930年代にドイツに留学し、フッサールに現象学を、ハイデガーに存在論を学んだ。そして、1943年(昭和18年)に刊行した『存在と無』で、自らの現象学的存在論を体系的に叙述した。本書は、「実存は本質に先立つ」という命題から出発する。実存(エクステンシア)とは、西欧でスコラ神学以来、本質(エッセンシア)と対比されてきた概念である。現実的な存在を意味し、普遍的な本質ではなく、個物的存在をいう。可能的な本質が現実化されたものである。近代西欧思想では、特に人間的実存をいう。
サルトルは、本書で、ユダヤ=キリスト教的な世界観に対して、それを否定する無神論的世界観を提示する。もし無から万物を創造した神が存在するならば、神は自ら創造するものが何であるか(本質)を分かっているから、すべてのものは現実に存在する前に、神によって本質を決定されていることになる。この場合は、本質が実存に先立つ。しかし、逆に神が存在しないとすれば、すべてのものはその本質を決定されることなく、現実に存在することになる。この場合は、実存が本質に先立つことになる。サルトルは、後者の世界認識を打ち出した。
サルトルは、1946年(昭和21年)刊行の『実存主義はヒューマニズムである』で、実存主義を宣言した。実存主義は、人間の本来的なあり方を主体的な実存に求める立場である。実存の哲学にはゼーレン・キルケゴールやカール・ヤスパースのような有神論的思想も可能だが、サルトルの思想は無神論的実存主義である。
サルトルによると、事物はただ在るに過ぎない即自存在(tre-en-soi)だが、人間的実存は自己を意識する対自存在(tre-pour-soi)である。対自存在は存在と呼ばれてもそれ自身は無である。人間は、あらかじめ本質を持っていない。人間とは、自分が自ら創りあげるものに他ならない。人間は自分の本質を創る自由を持っている。それゆえに、その責任はすべて自分に返ってくる。「人間は自由という刑に処せられている」とサルトルはいう。
人間はだれしも自分の置かれた状況に条件づけられ、拘束されている。人間を条件づけているのは、政治・社会・歴史など世界の全体である。人間は世界に働きかけて、選択の可能性を広げ、自己をますます解放しなければならない。このように説くサルトルは、アンガージュマン(政治参加・社会参加)の必要性を訴えた。核時代に入り、米ソ両大国の冷戦が続く状況において、世界を変えるために行動を呼びかけるものだった。その主張は、戦後の虚無感に苛まれていたフランスの青年層に強い共感を与え、さらに世界的に影響を広げた。1950年代から60年代にかけて、実存主義は、マルクス主義と並ぶ二大思潮となった。
サルトルは、自らの政治的・社会的実践を通して、社会的・歴史的な状況認識を深めるなかで、マルクス主義を評価するようになっていった。しかし、その思想的立場は、マルクス主義との関係で、何度も揺れ動いた。1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発すると、スターリン主義の共産党に接近したが、ソ連が民衆蜂起を武力で鎮圧した56年のハンガリー事件以後は、共産党と絶縁した。それでもなおサルトルはマルクス主義の根本的な矛盾・限界を看破することが出来ず、マルクス主義に固執した。それは、無神論的実存主義は、唯物論であることによる。それゆえ、本質的にマルクス主義と親和的であり、唯物論の中で人間的実存を強調する立場となる。
サルトルは、1962年(昭和37年)の『弁証法的理性批判』では、マルクス主義を生んだ状況はまだ乗り越えられていない、それゆえマルクス主義はわれわれの時代の哲学であり続けていると主張し、実存主義を「知の余白に生きる寄生的体系」と位置付けた。本書でサルトルは、史的唯物論を再構成し、マルクス主義の中に精神分析学やアメリカ社会学の成果を包摂しようと企てた。知の総体を全体化するための作業として、諸個人の実践と集団の弁証法を書き、さらに歴史的全体化の弁証法を論じる予定だったが、未完に終わった。
1968年(昭和43年)のフランス五月革命は、知識人・学生を中心に大衆が行動し、管理社会への反抗を表した。この動乱において、ユダヤ人サルトルは知識人として自己批判を行い、毛沢東主義を奉じる極左グループを支援した。毛沢東は、当時一部の人々に人民の立場に立つ指導者と誤解されていた。サルトルは、中国で進行中の文化大革命が、毛沢東の個人的な権力欲による権力闘争であることを見抜くことが出来なかった。
サルトルは、自らの過ちに気付かぬまま、1980年(昭和55年)に死去した。彼が戦後西欧の代表的な知識人として、マルクス主義に対する幻想を、世界の知識人や学生に与え続けたことは、大きな罪過である。その罪過は、無神論的な実存主義に発するものである。
次回に続く。
Posted by girl484013858 at 13:28│Comments(0)